鹿島紀行

江戸中期の俳諧紀行。一軸。松尾芭蕉著。寛政2年(1790)刊。貞享4年(1687)、芭蕉が門人曽良と宗波を伴い、鹿島神宮へ月見を兼ねて参拝したときの紀行。(デジタル大辞泉)

 

 洛(らく)の貞室、須磨の浦の月見にゆきて、

「松かげや月は三五や中納言」「まつかげや つきわさんごや ちゅうなごん」

と云けむ、狂夫のむかしもなつかしきまゝに、此秋、かしまの山の月見んと思ひ立つ事あり。伴ふ人ふたり、浪客(ろうかく)の士ひとり、一人は水雲の僧。僧はからすのごとくなる墨の衣に、三衣の袋をえりにうちかけ、出山の尊像をづしにあがめ入てうしろに背負、柱杖ひきならして、無門の関もさはるものなく、あめつちに独歩していでぬ。今ひとりは僧にもあらず、俗にもあらず、鳥鼠(ちょうそ)の間に名をかうぶりの、鳥なき島にもわたりぬべく、門より舟にのりて、行徳といふ処にいたる。 舟をあがれば、馬にものらず、ほそはぎのちからをためさんと、かちよりぞゆく。甲斐の国より或人の得させたる、檜もてつくれる笠を、おのおのいたゞきよそひて、やはたと云里を過れば、かまかいの原といふ所、ひろき野あり。秦甸(しんでん)の一千里とかや、目もはるかに見わたさるゝ。筑波山むかふに高く、二峰並び立り。かの唐土に双剣のみねありときこえしは廬山(ろざん)の一隅也。

 ゆきは申さずまづむらさきのつくば哉ゆきわもうさず まずむらさきの つくばかな

と詠(ながめ)しは、我門人嵐雪が句也。すべてこの山は日本武尊(やまとたけるのみこと)の言葉をつたへて、連歌する人のはじめにも名付たり。和歌なくばあべからず、句なくばすぐべからず。まことに愛すべき山のすがたなりけらし。

  萩は錦を地にしけらんやうにて、ためなかが長櫃(ながびつ)に折入て、都のつとに持せけるも、風流にくからず。きちかう・女郎花(おみなえし)・かるかや・尾花みだれあひて、さを鹿のつまこひわたる、いとあはれ也。野の駒、ところえがほにむれありく、又あはれなり。

 日既に暮かゝるほどに、利根川のほとり、ふさといふ所につく。此川にて、鮭の網代と云ものをたくみて、武江の市にひさぐもの有り。よひのほど、其の漁家に入てやすらふ。よるのやど、なまぐさし。月くまなくはれけるまゝに、夜舟さし下して、鹿島にいたる。

 ひるより雨しきりに降て、月見るべくもあらず。麓に、根本寺のさきの和尚、今は世をのがれて、此所におはしけると云を聞て、尋ね入てふしぬ。すこぶる人をして深省を発せしむと吟じけむ、しばらく清浄の心をうるに似たり。

 暁の空、いさゝかはれけるを、和尚おこし驚し侍れば、人々起出ぬ。月の光、雨の音、ただあはれなるけしきのみむねにみちて、いふべきことの葉もなし。はるばると月見に来たるかひなきこそ、ほいなきわざなれ。かの何がしの女すら、ほととぎすの歌得よまで帰りわづらひしも、我ためにはよき荷担の人ならんかし。

                和尚

 おりおりにかはらぬ空の月かげもおりおりに かわらぬそらの つきかげも

      ちゞのながめは雲のまにまにちじのながめわ くものまにまに

 月はやし梢は雨を持ながらつきはやし こずえわあめを もちながら   桃青

 寺に寝てまこと顔なる月見哉てらにねて まことがおなる つきみかな  同

 雨に寝て竹おきかへるつきみかなあめにねて たけおきかえる つきみかな ソラ

 月さびし堂の軒端の雨しづくつきさびし どうののきばの あめしずく  宗波

   神前

 此松の実ばへせし代や神の秋このまつの みばえせしよや かみのあき  桃青

 ぬぐはゞや石のおましの苔の露ぬぐわばや いしのおましの こけのつゆ 宗波

 膝折るやかしこまりなく鹿の声ひざおるや かしこまりなく しかのこえ ソラ

   田家

 かりかけし田面の鶴や里の秋かりかけし たずらのつるや さとのあき  桃青

 夜田かりに我やとはれん里の月よたかりに われやとわれん さとのつき 宗波

 賤の子や稲すりかけて月をみるしずのこや いねすりかけて つきをみる 桃青

 芋の葉や月待里の焼ばたけいものはや つきまつさとの やけばたけ 桃青

   野

 もゝひきや一花ずりの萩ごろもももひきや ひとはなずりの はぎごろも ソラ

 はなの秋草に喰あく野馬かなはなのあき くさにくいあく のうまかな  ゝ

 萩原や一夜はやどせ山の犬はぎはらや ひとよわやどせ やまのいぬ   桃青

   帰路自準に宿す

 塒せよわらほす宿の友すゞめねぐらせよ わらほすやどの ともすずめ 主人

  秋をこめたるくねの指杉あきをこめたる くねのさしすぎ   客

 月見んと汐引のぼる船とめてつきみんと しおひきのぼる ふねとめて ソラ

 

    貞享丁卯秋末五日*

* : 貞享四年(一六八七年)陰暦八月二十五日