奥の細道

『おくのほそ道』(おくのほそみち)は、元禄時代に活動した俳人松尾芭蕉による紀行文集。元禄15年(1702年)刊。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名で「月日は百代の過客にして…」という序文により始まる。

芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)に江戸深川の採荼庵を出発し(行く春や鳥啼魚の目は泪)、全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間(約半年)中に東北・北陸を巡って元禄4年(1691年)に江戸に帰った。「おくのほそ道」では、旧暦8月21日頃大垣に到着するまでが書かれている(蛤のふたみにわかれ行秋ぞ)。曾良の随行日記も、没後数百年を経て曾良本と共に発見されている。(Wikipedia)

<序章>

 月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年もまた旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老(おい)を迎ふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予(よ) もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそわれて、漂泊の思(ひょうはくのおもい)やまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋(こうじょうのはおく)に蜘の古巣(くものふるす)をはらひて、やゝ年も暮、春立てる霞の空に、白川の関越えんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて取る物手につかず、股引(ももひき)の破れをつづり笠の緒(かさのお)付けかへて、三里に灸(さんりにきゅう)すうるより、松島の月まづ心にかゝりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅(さんぷうがべっしよ)に移るに、

  草の戸も住みかはる代ぞ雛の家くさのとも すみかわるよぞ ひなのいえ

表八句(おもてはっく)を庵(いおり)の柱にかけおく。

<出立>

   弥生も末の七日、明けぼのの空朧々(ろうろう)として、月は有明にて光をさまれるものから、不二の峯幽(ふじのみねかすか)にみえて、上野・谷中の花の梢又いつかはと心細し。睦ましきかぎりは宵よりつどひて、舟にのりて送る。千住(せんじゅ)といふ所にて舟をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻の巷(まぼろしのちまた)に離別の涙をそゝぐ。

  行く春や鳥啼き魚の目は泪ゆくはるや とりなきうおの めわなみだ

 これを矢立(やたて)の初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後影の見ゆるまではと見送るなるべし。

<草加>

 ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、たゞかりそめに思ひ立ちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへども、耳に触れていまだ目に見ぬさかひ、もし生きてかへらばと定めなき頼みの末をかけ、其の日漸く(ようやく)早加といふ宿(しゅく)にたどり着きにけり。痩骨(そうこつ)の肩にかゝれる物まづ苦しむ。只身すがらにと出で立ち侍るを、紙子(かみこ)一衣(いちえ)は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは、さすがに打捨(うちす)てがたくて、路次(ろし)のわづらひとなれるこそわりなけれ。

<室の八島>

 室の八島に詣(けい)す。同行曾良が曰く、「此の神は木の花咲や姫(このはなさくやひめ)の神と申して、富士一体なり。無戸室(うつむろ)に入りて焼け給ふ誓(ちかひ)のみ中に火々出見(ほゝでみ)の尊(みこと)生れ給ひしより、室の八島と申す。又煙をよみ習はし侍るもこの謂(いは)れなり」。将(はた)、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世につたふ事も侍りし。

<仏五左衛門>

 三十日(みそか)、日光山の麓に泊る。主の云ひけるやう、「我名を仏五左衛門といふ。よろづ正直を旨とする故に、人かくは申し侍るまゝ、一夜の草の枕も打ち解けて休み給へ」といふ。いかなる仏の濁世塵土(ぢょくせじんろ)に示現(じげん)して、かゝる桑門(さうもん)の乞食順礼(こつじきじゅんれい)ごときの人をたすけ給ふにやと、主のなすことに心をとゞめてみるに、たゞ無智無分別にして正直偏固(へんこ)の者也。剛毅木訥(がうきぼくとつ)の仁に近きたぐひ、気稟(きひん)の清質、尤も(もっとも)尊(たっと)ぶべし。

<日光>

 卯月朔日(うづきついたち)、御山(おやま)に詣拝(けいはい)す。往昔(そのかみ)、此の御山を「二荒山(ふたらさん)」と書きしを、空海大師開基(かいき)の時「日光」と改め給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今この御光(みひかり)一天にかゞやきて、恩沢(おんたく)八荒(はつくわう)にあふれ、四民安堵の栖(すみか)穏かなり。猶(なほ)、憚(はゞかり)多くて筆をさし置きぬ。

  あらたふと青葉若葉の日の光あらとうと あおばわかばの ひのひかり

 黒髮山(くろかみやま)は、霞かゝりて雪いまだ白し。

  剃り捨ててくろかみ山に衣更そりすてて くろかみやまに ころもがえ  曾良

 曾良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の下葉(したば)に軒をならべて、予が薪水(しんすい)の労をたすく。このたび松島・象潟の眺め共にせんことを悦び、かつは羈旅(きりょ)の難をいたはらんと、旅だつ暁髪を剃りて墨染(すみぞめ)にさまをかへ、惣五を改めて宗悟とす。仍(よっ)て黒髪山の句有り。「衣更」の二字、力ありて聞ゆ。 二十余丁山を登つて滝有り。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭(へきたん)に落ちたり。岩窟に身をひそめ入りて、滝の裏より見れば、裏見の滝と申し伝へ侍るなり。

  暫時は滝に籠るや夏の初めしばらくわ たきにこもるや げのはじめ

<那須>

 那須の黒羽(くろばね)といふ所に知る人あれば、これより野越(のごえ)にかゝりて直道(すぐみち)を行かんとす。遥(はるか)に一村を見かけて行くに、雨降り日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明くれば又野中(のなか)をゆく。そこに野飼の馬あり。草刈るをのこに歎(なげ)きよれば、野夫(やぶ)といへども、さすがに情(なさけ)しらぬにはあらず。 「いかゞすべきや。されども此の野は縱横にわかれて、うひうひしき旅人の道ふみたがへん、あやしう侍れば、此の馬のとゞまる処にて馬を返し給へ」と貸し侍りぬ。ちひさき者ふたり、馬の跡したひて走る。独りは小姫にて、名を「かさね」と云ふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、

  かさねとは八重撫子の名なるべしかさねとわ やえなでしこの ななるべし  曾良

やがて人里に至れば、あたひを鞍壺(くらつぼ)に結ひつけて馬を返しぬ。

<黒羽>

 黒羽の館代(かんだい)浄坊寺何がしの方に音づる。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語りつゞけて、其の弟桃翠(たうすい)などいふが、朝夕勤めとぶらひ、自らの家にも伴ひて、親属の方にも招かれ、日を経るまゝに、ひと日郊外(こうがい)に逍遥して、犬追物(いぬおうもの)の跡を一見し、那須の篠原を分けて、玉藻(たまも)の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣づ。与市扇の的を射し時、「別しては我が国氏神正八幡(うじがみしょうはちまん)」と誓ひしも、此の神社にて侍ると聞けば、感応(かんおう)殊(こと)にしきりに覚えらる。暮るれば桃翠宅に帰る。

 修験光明寺といふ有り。そこに招かれて、行者堂を拝す。

  夏山に足駄を拝む首途哉なつやまに あしだをおがむ かどでかな

 

<雲厳寺>

 当国雲岸寺(うんがんじ)のおくに、仏頂和尚(ぶっちょうおしょう)山居の跡あり。

  縦横の五尺にたらぬ草の庵たてよこの ごしゃくにたらぬ くさのいお 

むすぶもくやし雨なかりせばと、松の炭して岩に書付侍りと、いつぞや聞え給ふ。其の跡見んと雲岸寺に杖を曳(ひ)けば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人多く道の程うちさわぎて、覚えず彼の麓に至る。山は奥あるけしきにて、谷道遥に松杉(まつすぎ)黒く苔しただりて、卯月の天今猶寒し。十景尽くる所、橋を渡つて山門に入る。

 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関(しかん)、法雲法師の石室をみるがごとし。

 

  木啄も庵はやぶらす夏木立きつつきも いおわやぶらず なつこだち

と、取りあへぬ一句を柱に残し侍りし。

<殺生石・遊行柳>

 是より殺生石に行く。館代より馬にて送らる。此の口付のをのこ、「短冊得させよ」と乞ふ。やさしき事を望み侍るものかなと、

  野を横に馬引きむけよほとゝぎすのをよこに うまひきむけよ ほととぎす

 殺生石は温泉(いでゆ)の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほど重なり死す。

 又清水ながるゝの柳は、蘆野(あしの)の里に有りて、田の畔(くろ)に残る。此の所の郡守戸部某(なにがし)の、「此の柳みせばや」など、折々にの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此の柳の蔭にこそ立ちより侍りつれ。

  田一枚植て立去る柳かなたいちまい うえてたちさる やなぎかな

<白川の関>

 心許(こころもと)なき日かず重なるまゝに、白河の関にかゝりて旅心定りぬ。「いかで都へ」と便り求めしもことわりなり。中にも此の関は三関の一にして、風騒(ふうさう)の人心をとどむ。秋風を耳にのこし、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢猶あはれなり。卯の花の白妙(しろたへ)に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣裳を改めし事など、清輔の筆にとゞめ置かれしとぞ。

  卯の花をかざしに関の晴着哉うのはなを かざしにせきの はれぎかな  曾良

<須賀川>

 とかくして越え行くまゝに、阿武隈川をわたる。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸下野の地をさかひて山つらなる。影沼といふ所を行くに、今日は空曇りて物影うつらず。須賀川の駅に等窮(とうきゅう)といふものを尋ねて、四、五日とゞめらる。先づ「白河の関いかに越えつるや」と問ふ。「長途の苦しみ、身心つかれ、かつは風景に魂うばはれ、懐旧(かいきゅう)に腸(はらわた)を断ちて、はかばかしう思ひめぐらさず。

  風流の初めやおくの田植うたふうりゅうの はじめやおくの たうえうた

無下に越えんもさすがに」と語れば、脇・第三とつゞけて三巻となしぬ。 此の宿の傍に、大きなる栗の木蔭をたのみて、世をいとふ僧有り。橡(とち)ひろふ太山(みやま)もかくやと間(そゞろ)に覚えられて、物にかきつけ侍る。其の詞、

  栗といふ文字は、西の木と書きて、西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖(つえ)にも柱にも此の木を用ひ給ふとかや。

 世の人の見つけぬ花や軒の栗よのひとの みつけぬはなや のきのくり

<あさか山>

 等窮が宅を出でて五里ばかり、檜皮(ひはだ)の宿をはなれてあさか山あり。路より近し。此のあたり沼多し。かつみ刈る比(ころ)もやゝ近うなれば、いづれの草を花がつみとはいふぞと、人々に尋ね侍れども、更に知る人なし。沼を尋ね、人にとひ、「かつみ/?」と尋ねありきて、日は山の端にかゝりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島にやどる。

<しのぶの里>

 明くれば、しのぶもぢ摺(ずり)の石をたづねて忍ぶの里に行く。遥か山陰(やまかげ)の小里に、石半ば土に埋れてあり。里の童部(わらべ)の来りて教へける、「昔は此の山の上に侍りしを、往来(ゆきき)の人の麦草をあらして、此の石を試み侍るをにくみて、此の谷につき落せば、石の面(おもて)下(しも)ざまに伏したり」といふ。さもあるべき事にや。

  早苗とる手もとや昔しのぶ摺さなえとる てもとやむかし しのぶずり

<佐藤庄司が旧跡>

 月の輪の渡を越えて、瀬の上といふ宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山ぎは一里半ばかりに有り。飯塚の里、鯖野(さばの)と聞きて、尋ね/?行くに、丸山といふに尋ねあたる。是庄司が旧館也。麓(ふもと)に大手の跡など人の教ふるに任せて泪をおとし、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし、先づ哀なり。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙(だるゐ)の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞へば、こゝに義経の太刀、弁慶が笈(おひ)をとゞめて什物とす。

  笈も太刀も五月にかざれ紙幟おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり

五月朔日(ついたち)のことなり。

<飯塚>

  其の夜飯塚にとまる。温泉(いでゆ)あれば、湯に入りて宿をかるに、土座(どざ)に莚(むしろ)を敷きて、あやしき貧家也。灯もなければ囲炉裏の火(ほ)かげに寝所(ねどころ)をまうけて臥す。夜に入りて、雷鳴り雨しきりに降りて、臥せる上より漏り、蚤・蚊(のみか)にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消え入るばかりになん。短夜(みじかよ)の空もやうやう明くれば、又旅立ちぬ。猶夜の余波(なごり)、こゝろ進まず。馬かりて桑折(こをり)の駅に出づる。遥なる行末をかゝへてかゝる病(やまひ)覚束なしといへど、羇旅(きりょ)辺土の行脚、捨身無常の観念、道路に死なん、是天の命なりと、気力聊(いさゝ)かとり直し、路縱横にふんで伊達の大木戸を越す。

<笠島>

  鐙摺(あぶみずり)、白石(しろいし)の城を過ぎ、笠島の郡(こうり)に入れば、藤(とうの)中将実方(さねかた)の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、「これより遥か右に見ゆる山際の里を蓑輪・笠島と云い、道祖神の社(やしろ)、かたみの薄(すゝき)、今にあり」と教ふ。このごろの五月雨に道いと悪しく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐるに、蓑輪・笠島も五月雨の折にふれたりと、

  笠島はいづこ五月のぬかり道かさしまわ いずこさつきの ぬかりみち

岩沼に宿る。

<武隈>

 武隈(たけくま)の松にこそ、目さむる心地はすれ。根は土際(つちぎわ)より二木(ふたき)にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。先づ能因(のういん)法師思ひ出づ。往昔(そのかみ)陸奥の守にて下りし人、此の木を伐(き)りて名取川の橋杭(はしぐい)にせられたる事などあればにや、「松は此のたび跡もなし」とは詠みたり。代々(よよ)、あるは伐り、あるいは植ゑつぎなどせしと聞くに、今はた千歳(ちとせ)の形とゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍りし。

  「武隈の松みせ申せ遅桜」と、挙白といふものの餞別したりければ、

 桜より松は二木を三月ごしさくらより まつわふたきを みつきごし

<宮城野>

 名取川を渡りて仙台に入る。あやめふく日也。旅宿を求めて、四五日逗留す。ここに画工(がこう)加右衛門といふ者あり。聊(いさゝか)心あるものと聞きて、知る人になる。この者、年比(としごろ)さだかならぬ名どころを考へ置き侍ればとて、一日(ひとひ)案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。玉田・横野・つゝじが岡はあせび咲くころなり。日影も漏らぬ松の林に入りて、こゝを木(こ)の下といふとぞ。昔もかく露深ければこそ、「みさぶらひみかさ」とは詠みたれ。薬師堂・天神の御社(みやしろ)など拝みて、其の日はくれぬ。猶、松島・塩竈(しおがま)の所々画にかきて送る。かつ、紺の染緒(そめを)つけたる草鞋(わらじ)二足餞(はなむけ)す。さればこそ、風流のしれもの、こゝに至りて其の実を顕(あらわ)す。

  あやめ草足に結ばん草鞋の緒あやめぐさ あしにむすばん わらじのお

<壺の碑>

 かの画図(えず)に任せてたどり行けば、おくの細道の山際に十符(とふ)の菅有り。今も年々十符(とふ)の菅菰(すがごも)を調(ととの)へて国守に献ずといへり。  壺碑(つぼのいしぶみ)  市川村多賀城に有り。

 つぼの石ぶみは、高さ六尺余、横三尺ばかりか。苔を穿(うが)ちて文字幽(かすか)也。四維国界(しゆいこっかい)の里数をしるす。「此城、神亀(じんき)元年、按察使鎮守府(あぜちちんじゅふ)将軍大野朝臣(あそん)東人(あずまびと)之所置也(の置く所なり)。天平宝字六年、参議東海東山節度使、同(おなじく)将軍恵美朝臣あさかり修造而(にして)、十二月朔日(ついたち)」 と有り。聖武皇帝の御時に当れり。昔よりよみ置ける歌枕、多く語り伝ふといへども、山崩れ川落ちて道改まり、石は埋れて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り、代変じて、其の跡たしかならぬ事のみを、こゝに至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚の一徳、存命の悦び、羇旅(きりょ)の労を忘れて泪も落つるばかり也。

<末の松山>

 それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造りて末松山(まつしようざん)といふ。松のあひあひみな墓原(はかはら)にて、はねをかはし枝を連ぬるちぎりの末も、終(ついに)はかくのごときと、悲しさもまさりて、塩竈の浦に入相(いりあひ)のかねを聞。五月雨の空聊(いさゝ)か晴れて、夕月夜かすかに、籬(まがき)が島もほど近し。蜑(あま)の小舟こぎつれて、肴(さかな)分つ声々に、「つなでかなしも」と詠みけん心もしられて、いとゞ哀なり。その夜目盲(めくら)法師の琵琶をならして、奥浄瑠璃(おくじょうるり)といふ物をかたる。平家にもあらず舞にもあらず、鄙(ひな)びたる調子うちあげて、枕近うかしましけれど、さすがに辺土の遺風(ゐふう)忘れざるものから、殊勝(しゅしよう)に覚えらる。

<塩竈>

  早朝塩竈(しおがま)の明神に詣づ。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仭(きゅうじん)に重なり、朝日あけの玉垣(たまがき)をかがやかす。かゝる道のはて、塵土(じんど)の境(さかい)まで、神霊あらたにましますこそ、吾が国の風俗なれと、いと貴(とうと)けれ。神前に古き宝燈(ほうとう)有り。かねの戸びらの面に、「文治三年和泉三郎寄進」とあり。五百年来の俤、今目の前に浮びてそゞろに珍し。渠(かれ)は勇義忠孝の士也。佳命(かめい)今に至りて、したはずといふ事なし。誠に「人能く道を勤め、義を守るべし、名もまた是にしたがふ」といへり。日既に午に近し。舟をかりて松島に渡る。其の間二里余、雄嶋(をじま)の磯につく。

<松島>

 抑(そもそ)も事ふりにたれど、松島は扶桑第一の好風(こうふう)にして、凡(およそ)そ洞庭(どうてい)西湖(せいこ)を恥ぢず。東南より海を入れて、江の中三里、浙江(せっこう)の潮(うしお)をたゝふ。島々の数を尽して、欹(そばだ)つものは天を指(ゆびさ)し、伏すものは波に匍匐(はらば)ふ。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負へるあり抱けるあり、児孫(じそん)愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉(しよう)汐風に吹きたわめて、屈曲おのづからためたるが如し。其の気色よう然として、美人の顔(かんばせ)を粧(よそお)ふ。ちはやぶる神のむかし、大山(おおやま)ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆を揮(ふる)ひ詞を尽さん。

 雄島が磯は地つゞきて、海に出でたる島也。雲居禅師(うんごぜんじ)の別室の跡、坐禅石(ざぜんせき)など有り。はた、松の木陰に世を厭ふ人も稀/?(まれまれ)見え侍りて、落穗・松笠など打けぶりたる草の庵(いおり)閑(しずか)に住みなし、いかなる人とは知られずながら、先づ懐かしく立寄るほどに、月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。江上に帰りて宿を求むれば、窓をひらき二階をつくりて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙(たへ)なる心地はせらるれ。

 松島や鶴に身をかれ時鳥まつしまや つるにみをかれ ほととぎす 曾良

 予は口を閉ぢて、眠らんとしていねられず。旧庵をわかるゝ時、素堂、松島の詩有り。原安適、松が浦島の和歌を贈らる。袋を解いて、こよひの友とす。かつ、杉風・濁子が発句あり。

 十一日、瑞岩寺(ずいがんじ)に詣づ。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後開山す。其の後に雲居禅師の徳化(とくげ)によりて、七堂甍(いらか)改りて、金壁荘厳(きんぺきさうごん)光を輝かし、仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼の見仏聖(けんぶつひじり)の寺はいづくにやと慕はる。

<石巻>

 十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞き伝へて、人跡まれに、雉兎蒭蕘(ちとすうじょう)の行きかふ道そこともわかず、終に道ふみたがへて、石の巻といふ湊に出づ。「こがね花さく」とよみて奉りたる金花山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地を争ひて、竃(かまど)の煙立ちつゞけたり。思ひかけず斯る所にも来れる哉と、宿からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(ようよう)まどしき小家に一夜をあかして、明くれば又知らぬ道まよひ行く。袖の渡り・尾ぶちの牧・真野(まの)の萱(かや)原などよそ目に見て、遥なる堤を行く。心細き長沼にそうて、戸伊摩(といま)といふ処に一宿し、て平泉に至る。その間二十余里ほどとおぼゆ。

<平泉>

 三代の栄耀(えいよう)一睡の中にして、大門のあとは一里こなたに有り。秀衡が跡(あと)は田野に成りて、金鷄山のみ形を残す。先づ高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川(ころもがわ)は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入る。康衡(やすひら)等が旧跡は、衣(ころも)が関を隔てて、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐと見えたり。偖(さて)も義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠うち敷きて、時のうつるまで泪(なみだ)を落し侍りぬ。

  夏草や兵どもが夢の跡なつくさや つわものどもが ゆめのあと

  卯の花に兼房みゆる白毛哉うのはなに かねふさみゆる しらがかな 曾良  

 かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺(くわん)を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、珠の扉(とぼそ)風に破れ、金(こがね)の柱霜雪(そうせつ)に朽(く)ちて、既に頽廃空虚(たいはいくうきょ)の叢(くさむら)となるべきを、四面新に囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぐ。暫時(しばらく)千歳の記念とはなれり。

 五月雨の降りのこしてや光堂さみだれの ふりのこしてや ひかりどう

<尿前の関>

 南部道遥かに見やりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小島を過ぎて、鳴子(なるご)の湯より尿前(しとまへ)の関にかゝりて、出羽の国に越えんとす。此の道旅人まれなる処なれば、関守(せきもり)にあやしめられて、漸(ようよう)として関を越す。大山をのぼつて日既に暮れければ、封人(ほうじん)の家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。

 蚤虱馬の尿する枕もとのみしらみ うまのしとする まくらもと

 主の云ふ、是より出羽国に、大山を隔てて、道さだかならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばと云ひて人を頼み侍れば、究竟(くっきょう)の若者、反脇指(そりわきざし)をよこたへ、樫の杖を携へて我々が先に立ちて行く。けふこそ必ず危き目(め)にもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行く。主のいふにたがはず、高山森々(しんしん)として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜行くがごとし。雲端に土ふる心地して、篠(しの)の中踏み分け/?、水をわたり岩に蹶(つまづ)いて、肌(はだ)につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしをのこの云ふやう、「此の道必ず不用の事あり。恙(つゝが)なう送りまゐらせて仕合したり」と、悦びて別れぬ。あとに聞きてさへ胸とゞろくのみなり。

<尾花沢>

 尾花沢にて清風と云ふ者を尋ぬ。かれは富める者なれども志いやしからず。都にも折々(おりおり)かよひて、さすがに旅の情をも知りたれば、日比(ひごろ)とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。

 凉しさを我が宿にしてねまる也すずしさを わがやどにして ねまるなり

 這出でよ飼屋が下のひきの声はいいでよ かいやがしたの ひきのこえ

 眉掃を俤にして紅粉の花まゆはきを おもかげにして べにのはな

 蚕飼する人は古代のすがた哉こがいする ひとわこだいの すがたかな   曾良

<立石寺>

 山形領に立石(りゅうしゃく)寺といふ山寺あり。慈覚大師の開基にて、殊(こと)に清閑の地なり。一見すべきよし、人々の勧むるに依りて、尾花沢よりとつてかへし、其の間七里ばかり也。日いまだ暮れず、麓の坊に宿かり置きて、山上の堂に登る。岩に巌(いわ)を重ねて山とし、松柏(しょうはく)年旧(としふり)、土石老(お)いて苔滑かに、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞(かけいじゃくばく)として心すみ行くのみおぼゆ。

 閑かさや岩にしみ入る蝉の声しずかさや いわにしみいる せみのこえ

<最上川>

 最上川乗らんと、大石田と云ふ所に日和を待つ。こゝに古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花の昔をしたひ、蘆角(ろかく)一声の心をやはらげ、此の道にさぐりあしして、新古ふた道にふみ迷ふといへども、道しるべする人しなければと、わりなき一巻のこしぬ。此のたびの風流こゝに至れり。 最上川はみちのくより出でて、山形を水上とす。碁点(ごてん)・隼(はやぶさ)などいふおそろしき難所有り。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆(おほ)ひ、茂みの中に船を下(くだ)す。これに稲つみたるをや、いな舟といふならし。白糸の滝は青葉のひま/?に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎつて舟あやふし。

 五月雨をあつめて早し最上川さみだれを あつめてはやし もがみがわ

<羽黒>

 六月三日、羽黒山にのぼる。図司左吉(ずしさきち)といふ者を尋ねて、別当代会覚阿闍梨(ゑかくあじゃり)に謁(えっ)す。南谷の別院に舎(やど)して、憐愍(れんみん)の情こまやかにあるじせらる。

 四日、本坊において俳諧興行。

 ありがたや雪をかをらす南谷ありがたや ゆきをかおらす みなみだに

 五日、権現に詣づ。当山開闢(かいびやく)能除大師は、いづれの代の人といふ事を知らず。延喜式に「羽州里山の神社」と有り。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。羽州黒山を中略して羽黒山といふにや。出羽といへるは、「鳥の毛羽を此の国の貢(みつぎ)に献(たてまつ)る」と風土記に侍るとやらん。月山、湯殿を合せて三山とす。当寺武江東叡に属して、天台止観(てんだいしかん)の月明かに、円頓融通(ゑんとんゆうづう)の法(のり)の灯かゝげそひて、僧坊棟(むね)をならべ、修験行法を励まし、霊山霊地の験効(けんこう)、人貴(たっと)び且つ恐る。繁栄長(とこしな)へにして、めでたき御山(おやま)と謂(いつ)つべし。

 八日、月山にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身に引きかけ、宝冠(ほうかん)に頭を包み、強力(ごうりき)といふものに導(みちび)かれて、雲霧山気(うんむさんき)の中に、氷雪(ひようせつ)を踏んで登る事八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶え身こゞえて頂上に臻(いた)れば、日没して月顕(あら)はる。笹を敷き、篠を枕として、臥して明くるを待つ。日出でて雲消ゆれば、湯殿に下る。

 谷の傍(かたわら)に鍛冶小屋といふ有り。此の国の鍛冶(かじ)、霊水を選びて、こゝに潔斎(けっさい)して剣を打ち、終に「月山」と銘を切つて世に賞せらる。彼の龍泉に剣を淬(にら)ぐとかや。干将(かんしょう)・莫耶(ばくや)のむかしをしたふ、道に堪能の執(しゅう)あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばし休らふほど、三尺ばかりなる桜の蕾(つぼみ)半ば開けるあり。ふり積む雪の下に埋れて、春をわすれぬ遅桜の花の心わりなし。炎天の梅花こゝに薫るがごとし。行尊僧正の歌の哀れもこゝに思ひ出でて、猶まさりて覚ゆ。すべて、此の山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍(よ)つて筆をとゞめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨(あじゃり)の需(もとめ)に依つて、三山順礼の句々短冊(たんざく)に書く。

 凉しさやほの三日月の羽黒山すずしさや ほのみかずきの はぐろやま

 雲の峰幾つ崩れて月の山くものみね いくつくずれて つきのやま

 語られぬ湯殿にぬらす袂かなかたられぬ ゆどのにぬらす たもとかな

 湯殿山銭ふむ道の泪かなゆどのやま ぜにふむみちの なみだかな   曾良

<酒田>

 羽黒を立つて、鶴が岡の城下、長山氏重行といふ武士(ものゝふ)の家にむかへられて、俳諧一巻有り。左吉も共に送りぬ。川舟に乗りて、酒田の湊に下る。淵庵不玉(えんあんふぎょく)といふ医師の許(もと)を宿とす。

 あつみ山や吹浦かけて夕すゞみあつみやまや ふくうらかけて ゆうすずみ

 暑き日を海に入れたり最上川あつきひを うみにいれたり もがみがわ

<象潟>

 江山水陸(こうざんすゐりく)の風光数を尽して、今象潟(きさかた)に方寸を責(せむ)。酒田の湊より東北の方、山を越え、磯を伝ひ、いさごを踏みて其の際十里、日影やゝ傾(かたぶ)く比(ころ)、汐風真砂を吹き上げ、雨朦朧(もうろう)として鳥海の山かくる。闇中(あんちゅう)に莫作(もさく)して、雨も又奇なりとせば雨後の晴色(せいしよく)又たのもしと、蜑(あま)の笘屋(とまや)に膝を入れて、雨の晴るゝを待つ。其の朝、天よく霽(は)れて朝日はなやかにさし出づるほどに、象潟に舟を浮ぶ。先づ能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木(おいき)、西行法師の記念(かたみ)を残す。江上に御陵(みさゝぎ)あり、神功(じんぐう)后宮の御墓といふ。寺を干満珠寺(かんまんじゅじ)といふ。此処に行幸(ぎょうこう)ありし事いまだ聞かず。いかなる事にや。此の寺の方丈に坐して簾(すだれ)を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海天をさゝへ、其の影うつりて江(え)にあり。西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築きて、秋田にかよふ道遥かに、海北に構へて浪うち入るゝ所を汐ごしといふ。江の縱横一里ばかり、俤(おもかげ)松島にかよひて、又異なり。松島は笑ふが如く、象潟は怨むがごとし。寂しさに悲しみをくわへて、地勢魂をなやますに似たり。

 象潟や雨に西施がねぶの花きさかたや あめにせいしが ねぶのはな

 汐越や鶴はぎぬれて海涼ししおごしや つるはぎぬれて うみすずし   祭礼

 象がたや料理何くふ神まつりきさがたや りょうりなにくう かみまつり   曾良

 蜑の家や戸板を敷きて夕すゞみあまのやや といたをしきて ゆうすずみ  美濃の国の商人 低耳

岩上に雎鳩(みさご)の巣(す)を見る

 浪こえぬ契ありてやみさごの巣なみこえぬ ちぎりありてや みさごのす 曾良

<越後路>

 酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道の雲に望む。遥々(はる/゛?)のおもひ胸(むね)をいたましめて、加賀の府まで百十里と聞く。鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行を改めて、越中の国市振の関に到る。此の間九日、暑湿(しょしつ)の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。

 文月や六日も常の夜には似ずふみつきや むいかもつねの よにわにず

 荒海や佐渡に横たふ天の河あらうみや さどによこたう あまのがわ

<市(一)振>

  今日は親知らず・子知らず・犬もどり・駒返しなどいふ北国一の難所をこえて、疲れ侍れば、枕(まくら)引きよせて寝たるに、一間隔てて面の方に、若き女の声二人ばかりと聞ゆ。年老いたるをのこの声も交りて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、此の関までをのこの送りて、あすは故郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝(ことづて)などしやる也。白波(しらなみ)のよする汀(なぎさ)に身をはふらかし、蜑(あま)のこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物いふを聞く/?寝入りて、あした旅立つに、我々にむかひて、「行方知らぬ旅路(たびじ)のうさ、あまり覚束なうかなしく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍らん。衣のうへの御情(みなさけ)に、大慈(だいじ)のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は所々にてとゞまる方多し。只人の行くに任せて行くべし、神明の加護、必ず恙(つゝが)なかるべし」と、云捨てて出でつゝ、哀れさしばらくやままざりけらし。

 一家に遊女もねたり萩と月ひとつやに ゆうじょもねたり はぎとつき

曾良にかたれば、書きとゞめ侍る。

<那古の浦>

 黒部四十八か瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古といふ浦に出づ。担籠(たこ)の藤浪は、春ならずとも、初秋の哀れとふべきものをと、人に尋ぬれば、「これより五里、磯づたひして、むかふの山陰に入り、蜑(あま)の苫(とま)ぶきかすかなれば、蘆(あし)の一夜の宿かすものあるまじ」と云ひおどされて、加賀の国に入る。

 わせの香や分け入る右は有磯海わせのかや わけいるみぎわ ありそうみ

<金沢>

 卯の花山・くりからが谷を越えて、金沢は七月中の五日也。爰(こゝ)に大阪よりかよふ商人何処(かしょ)といふ者あり、それが旅宿(りょしゅく)をともにす。一笑といふものは、此の道にすける名のほのぼの聞えて、世に知る人も侍りしに、去年(こぞ)の冬、早世(そうせい)したりとて、其の兄追善(つゐぜん)をもよほすに、

 塚も動け我が泣く声は秋の風つかもうごけ わがなくこえわ あきのかぜ

  ある草庵にいざなはれて

 秋凉し手毎にむけや瓜茄子あきすずし てごとにむけや うりなすび

  途中吟

 あか々々と日は難面も秋の風あかあかと ひわつれなくも あきのかぜ

<小松>

  小松といふ所にて

 しをらしき名や小松吹く萩すすき

此の所、太田の神社に詣づ。実盛が甲(かぶと)・錦の切(きれ)あり。住昔(そのかみ)、源氏に属せし時、義朝公より賜はらせ給ふとかや。げにも平士(ひらさぶらい)の物にあらず。目庇(まびさし)より吹返(ふきかえ)しまで、菊唐草(からくさ)の彫りもの金(こがね)をちりばめ、竜頭(たつがしら)に鍬形(くはがた)打(う)ちたり。実盛討死の後、木曾義仲願状(がんじょう)にそへて、此の社にこめられ侍るよし、樋口(ひぐち)の次郎が使せし事ども、まのあたり縁紀に見えたり。

 むざんやな甲の下のきりぎりすむざんやな かぶとのしたの きりぎりす

<那谷>

 山中の温泉(いでゆ)に行くほど、白根が嶽(たけ)あとに見なして歩む。左の山際に観音堂あり。花山の法皇三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷(なた)と名付け給ふと也。那智・谷組の二字を分ち侍りしとぞ。奇石さまざまに、古松植ゑならべて、萱(かや)ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。

 石山の石より白し秋の風いしやまの いしよりしろし あきのかぜ

<山中>

 温泉(いでゆ)に浴す。其の功有明に次ぐと云ふ。

 山中や菊はたをらぬ湯の匂やまなかや きくわたおらぬ ゆのにおい

   あるじとするものは、久米之助(くめのすけ)とて、いまだ小童也。彼が父俳諧を好み、洛(らく)の貞室、若輩のむかし、こゝに来りし比、風雅に辱(はずか)しめられて、洛に帰りて貞徳の門人となつて世に知らる。功名の後、此の一村判詞(はんし)の料(りょう)を請(う)けずといふ。今更(いまさら)昔がたりとはなりぬ。 曾良は腹を病みて、伊勢の国長島といふ所にゆかりあれば、先立ちて行くに、

 行きゆきてたふれ伏すとも萩の原ゆきゆきて たおれふすとも はぎのはら  曾良

と書き置きたり。行く者の悲しみ、残る者のうらみ、隻鳧(せきふ)の別れて雲に迷ふがごとし。予も又

 今日よりや書付消さん笠の露きょうよりや かきつけけさん かさのつゆ

<全昌寺・夕越の松>

 大聖持の城外、全昌寺(ぜんしょうじ)といふ寺に泊る。猶(なほ)加賀の地なり。曾良も前の夜、この寺に泊りて、

 終宵秋風きくやうらの山よもすがら あきかぜきくや うらのやま

と残す。一夜のへだて千里に同じ。吾も秋風を聞きつゝ衆寮(しゅうりょう)に臥せば、明ぼのの空近う読経(どきょう)声すむまゝに、鐘板(しょうばん)鳴つて食堂(じきどう)に入る。けふは越前の国へと、心早卒(さうそつ)にして堂下に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝへ、階(きざはし)のもとまで追ひ来る。折ふし庭中の柳散れば、

 庭掃きて出づるや寺に散る柳にわはきて いずるやてらに ちるやなぎ

取りあへぬさまして、草鞋ながら書き捨つ。

  越前の境、吉崎の入江を舟に棹(さをさ)して、汐越の松を尋ぬ。

 終宵嵐に波をはこばせて 月をたれたる汐越の松よもすがら あらしになみを はこばせて つきをたれたる しおごしのまつ 西行

此の一首にて数景尽きたり。若し一辨(べん)を加ふるものは、無用の指を立つるがごとし。

<天竜寺・永平寺>

 丸岡天龍寺の長老、古き因みあれば訪ぬ。又、金沢の北枝といふ者、かりそめに見送りて此処まで慕ひ来る。所々の風景過さず思ひつゞけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今既に別(わかれ)にのぞみて、

 物書て扇引きさく余波哉ものかいて おうぎひきさく なごりかな

  五十丁山(やま)に入つて、永平寺を礼す。道元禅師の御寺なり。邦機(ほうき)千里を避(さ)けて、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆえ有りとかや。

 

<等栽>

 福井は三里ばかりなれば、夕飯(ゆふげ)したゝめて出づるに、たそがれの路たどだどし。爰(こゝ)に等栽(とうさい)といふ古き隠士(いんし)あり。いづれの年にか、江戸に来りて予を尋ぬ。遥(はる)か十とせ余り也。いかに老いさらぼひてあるにや、将(はた)死にけるにやと人に尋ね侍れば、いまだ存命して、そこそこと教ふ。市中ひそかに引入りて、あやしの小家(こいえ)に夕顔・へちまの這ひかゝりて、鶏頭・箒木(はゝきゞ)に戸ぼそをかくす。さては、此の内にこそと門を叩けば、侘(わび)しげなる女の出でて、「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは此のあたり何がしと云ふものの方に行きぬ。もし用あらば尋ね給へ」といふ。かれが妻なるべしと知らる。昔物語にこそかゝる風情は侍れと、やがて尋ね逢ひて、その家に二夜泊りて、名月は敦賀の湊にと旅立つ。等栽も共に送らんと、裾(すそ)をかしうからげて、路の枝折(しおり)とうかれ立つ。

<敦賀>

  漸(やうや)く白根が嶽(だけ)かくれて、比那(ひな)が嵩(たけ)顕はる。あさむづの橋を渡りて、玉江の蘆(あし)は穂に出でにけり。鴬の関を過ぎて、湯尾(ゆのお)峠を越れば、燧(ひうち)が城(じやう)、かへるやまに初雁を聞きて、十四日の夕暮、敦賀の津に宿をもとむ。

 その夜月殊に晴れたり。「明日の夜もかくあるべきにや」といへば、「越路のならひ,猶(なほ)明夜の陰晴(いんせい)はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、気比(けい)の明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭(しゃとう)神さびて、松の木の間に月のもり入りたる、おまへの白砂霜(しも)を敷けるが如し。往昔(そのかみ)遊行二世の上人、大願發起(だいがんほっき)の事ありて、みづから草を刈り、土石を荷ひ、泥ていをかわかせて、参詣往来(さんけいおうらい)の煩なし。古例今に絶えず。神前に真砂を荷ひ給ふ。「これを遊行の砂持と申し侍る」と、亭主の語りける。

  月清し遊行のもてる砂の上つききよし ゆぎょうのもてる すなのうえ

 十五日、亭主の詞にたがはず雨降る。

  名月や北国日和定なきめいげつや ほっこくびより さだめなき

<種の浜>

 十六日、空霽(は)れたれば、ますほの小貝ひろはんと、種(いろ)の浜に舟を走す。海上七里あり。天屋何某といふもの、破籠(わりご)・小竹筒(さゝえ)などこまやかにしたゝめさせ、僕(しもべ)あまた舟にとり乗せて、追風時(とき)のまに吹きつけぬ。浜はわづかなる海士(あま)の小家にて、侘しき法花寺あり。こゝに茶を飲み酒をあたゝめて、夕暮の淋しさ感に堪へたり。

  寂しさや須磨にかちたる浜の秋さびしさや すまにかちたる はまのあき

  波の間や小貝にまじる萩の塵なみのまや こがいにまじる はぎのちり

<大垣>

 露通も此の湊まで出むかひて、美濃の国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より来り合ひ、越人も馬をとばせて、如行が家に入り集まる。前川子(ぜんせんし)、荊口(けいこう)父子、其の外親しき人々日夜とぶらひて、蘇生(そせい)のものにあふがごとく、且つ悦び、かついたはる。旅の物うさもいまだ止まざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮拝まんと又舟にのりて、

 蛤のふた見にわかれ行く秋ぞはまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ