幻住庵記
作成者:Web Master 作成日:火, 06/28/2016 - 09:20
「奥の細道」の旅を終えた翌年の元禄3年(1690年)3月頃から、膳所の義仲寺無名庵に滞在していた芭蕉が、門人の菅沼曲水の奨めで同年4月6日から7月23日の約4ヶ月間隠棲した小庵。ここで「奥の細道」に次いで著名で、「石山の奥、岩間のうしろに山あり、国分山といふ」の書き出しで知られる「幻住庵記」を著した。(Wikipedia)
石山の奥、岩間のうしろに山有り、国分山と云(いふ)。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。麓(ふもと)に細き流れを渡りて、翠微(すいび)に登る事三曲二百歩にして、八幡宮たたせたまふ。神体は弥陀の尊像とかや。唯一の家には、甚忌(はなはだい)むなる事を、両部光を和(よは)らげ、利益(りやく)の塵(ちり)を同じうしたまふも又貴し。日ごろは人の詣(もうで)ざりければ、いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸有。蓬(よもぎ)・根笹軒(ねざさのき)をかこみ、屋根もり壁落ちて、狐狸(こり)ふしどを得たり。幻住庵(げんじゅうあん)といふ。あるじの僧なにがしは、勇士菅沼氏曲水子(きょくすいし)の叔父になんはべりしを、今は八年ばかり昔に成りて、まさに幻住老人の名をのみ残せり。
予又市中を去ること十年計りにして、五十年(いそじ)やや近き身は、蓑虫(みのむし)の蓑を失ひ、蝸牛(かたつむり)家を離れて、奥羽象潟の暑き日に面(おもて)をこがし、高砂子(たかすなご)歩み苦しき北海の荒磯(あらいそ)にきびすを破りて、今歳(ことし)湖水の波にただよふ。鳰(にお)の浮巣の流れとどまるべき蘆(あし)の一本のかげたのもしく、軒端ふきあらため、垣根ゆひそへなどして、卯月(うげつ)の初めいとかりそめに入りし山の、やがて出でじとさへ思ひそみぬ。
さすがに、春の名残も遠からず、つつじ咲き残り、山藤松にかかりて、時鳥(ほととぎす)しばしば過ぐるほど、宿かし鳥のたよりさへあるを、啄木(きつつき)のつつくともいとはじなど、そぞろに興じて、魂呉・楚東南に走り、身は瀟湘(せいしょう)・洞庭に立つ。山は未申(ひつじさる)にそばだち、人家よきほどに隔たり、南薫(なんくん)峰よりおろし、北風海を侵(ひた)して涼し。比叡の山、比良の高根より、辛崎の松は霞をこめて、城有、橋有、釣たるる舟有、笠とりにかよふ木樵(きこり)の声、麓(ふもと)の小田に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏(くひな)のたたく音、美景、物として足らずといふことなし。中にも三上山は士峰の俤(おもかげ)にかよひて、武蔵野の古き住みかも思ひ出でられ、田上山に古人をかぞふ。ささほが岳・千丈が峰・袴腰(はかまごし)といふ山あり。黒津の里はいと黒う茂りて、網代守るにぞと詠みけん『万葉集』の姿なりけり。なほ眺望くまなからむと、後の峰に這(はひ)ひのぼり、松の棚作り、藁(わら)の円座を敷きて、猿の腰掛けと名付。かの海棠(かいだう)に巣をいとなび、主簿峰(しゅぼほう)に庵を結べる王翁(わうをう)・徐栓が徒にはあらず。ただ睡癖(すいへき)山民(さんみん)と成って、孱顔(さんがん)に足を投げ出し、空山に虱(しらみ)をひねって座す。
たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みて自ら炊(かし)ぐ。とくとくの雫(しずく)を侘びて、一炉の備へいとかろし。はた、昔住みけん人の、ことに心高く住みなしはべりて、たくみ置ける物ずきもなし。持仏一間(じぶつひとま)を隔てて、夜の物おさむべき処などいささかしつらへり。