季語(季題)

有季俳句の場合、「季語」という言葉を使うか、季題」という言葉を使うかという問題があるようですが、これは、人の好みや理解の仕方の差であると思います。ホトトギス派の人は、「季題」という言葉を使います。五・七・五の有季定型俳句には、「季節を表す言葉」がひとつなければならないという規則があるので、その意味で言うならば、季語も季題も同じように扱えると思います。私は、季語という言葉に慣れているので、「季語」という言葉を使います。
そして、その季語の辞典に相当するのが「歳時記」と言われるものです。
たとえば、有名な芭蕉の句に「古池や蛙飛びこむ水の音」というのがあります。この句の中の季語(季題)は「蛙(かわず)」です。「蛙」は、現代語でいえば「かえる」のことです。これを「歳時記」で引くと、「一般的にはかえるうである。二月ごろから冬眠していた蛙がそろそろ顔を出し、春から夏へかけて田や畑でしだいにやあましく鳴きはじめる。その鳴きはじめの蛙の声に昔から春を感じたのである。雨蛙や河鹿、蟇蛙は、夏。」というように説明があり、「蛙」の季語を使った俳句の例がいくつか掲載されています。たとえば、下記の句は、いかがですか?安住 敦という人は、久保田万太郎を師と仰いだ人です。
夕蛙いもうと兄を門に呼ぶ     安住 敦

季語は、一句にひとつというのが原則です。一句に季語が二つ以上ある場合を季重ね(かがさね)あるいは季重なり(きかさなり)と言って、俳句の世界では、敬遠されます。
また、五・七・五の定型俳句の中でも、季語や季感はなくてもよいとする「無季の句」を容認する人もいます。
芭蕉も、季感は無視してもよい状況というのに出会うことがあることから、無季を容認していると思われる言葉が残っています。

季語について、水原秋桜子は、下記のように言っています。(「俳句観賞辞典」)

   「季語は一句の中に一つある場合が、その力を発揮しやすいし、また表現の上でも楽であります。
   季語について、知って置いていただきたいことがありました。
   それは「花」といえば「桜」のことであり、「月」といえば「秋の月」を指すという約束になっていることです。」

高浜虚子の言葉

  「俳句は季題を詠ずる文学なり」(「六ヶ月間俳句講義」大正2年6月)
  「季は一句の中に、揺るがぬ存在でなくてはならぬ。
  只季がまじっておればいいと云ふが如きそんな軽薄なものではない。
  季は句の生命を支配する重要さをもってをる。」(「玉藻」昭和29年12月)

稲畑廣太郎の言葉

  現在歳時記に載っていない地方独特の花、また季節感溢れる祭りでもよいが、誰かがその花の名前、
  祭の言葉で句を作り、それが名句として認められたあかつきにはその句を例句にして、
  歳時記の季題として定着するのである。   (「季題と表現の新しさ」)

山本健吉の言葉

  「季題とは、日本人の美意識が、和歌、連歌、俳句の時代を通して、選びとり、尊重してきた、
  公認された美の題目であり」
  「季語とは、まだその美が公認されていない、季節の様々な言葉の採集されたもの」