花鳥諷詠と人間探求

「花鳥諷詠」 昭和3年6月 大阪毎日新聞講演会 高浜 虚子 (ホトトギス派)

  俳句の目的は、花鳥風月を諷詠するにあると思います。
  少なくとも今日以後の俳句はそういう標識の下に進むべきものだと思います。
  花鳥風月と一口に申しますのは、春夏秋冬四季の変遷により起り来る天然人事の
  種々の現象(筆者注、季語)をいうのであります。
  これらを吟詠することを花鳥諷詠と言います。(「俳句を志す人々のために」)

  現代の俳句は、叙景詩です。(中略)十七字という形が抒情に適せぬところから
  自然叙景詩に傾いてきたのであります。)

花鳥諷詠(高浜虚子著「俳談」)

  感情があって花鳥があり、また花鳥があって感情がある。
  花鳥に重きを置くけれど感情がなければ詩にならぬ。
  花鳥諷詠は、自然現象のみではない。人間のことも含んで居る。
  四季が影響する人事は花鳥風月の中に含んでおる。
  凡て(すべて)それらを含めて花鳥の二字に代表させておる。(中略)
  昔は感情が先で景色が後であったのが、今は景色が先で感情が後になる傾きがある。
  句のできた時は同じことで、景色と感情がひたと結び付いた時だ。

花鳥諷詠(虚子俳句問答-1.理論編)
  「季題は、四百年の昔俳句が生まれ出てから今日まで続いてきておる所の物であります。・・・
  季題というものを花鳥風月の四文字で代表させ、さらに花鳥の二字につづめて、
  俳句は花鳥諷詠の文学であると申すのであります。
  これは俳句は季題諷詠の文学であるというのと同じ意味であります。」

稲畑汀子 (ホトトギス派)

  ホトトギスが理念とする花鳥諷詠は花鳥(四季の中にある自然および人間)を諷詠するという
  意味である。(平成8年4月)

人間探求派

  「人生以下に生くべきか」に深くかかわりあう。中国でいう詩は志なのである。
  この三人の傾向が、篠原 梵を加えて、難解派とか人間探求派とか言われて、
  新興俳句に対するアンチ・テーゼとして俳壇に意識されたのは、昭和14年ごろのことであった。
                          (「楸邨句集」解説)
  中村 草田男・・・・・思想の抒情化  

  石田 波郷・・・・・・・人間臭い俳句。「俳句は文学ではない」(俳句独自の重さで立て) 

  加藤 楸邨・・・・・・・生活の声