抒情詩

水原秋桜子の考え

  俳句も短歌も、性格から言えば抒情詩に属します。(中略)俳句では
  その感動を与えた景色を要領よく読者の前に描き出して見せればよいのです。(中略)
  言葉の選び方および組み合わせ方によって生ずる音調によって、作者の感動は読者に
  伝えられ、同じような感動を読者の胸に沸きおこさせる   のであります。(中略)
  表面には景色を描きだし、感動は音調によって伝えるというのが本筋。

萩原朔太郎の考え(「郷愁の詩人与謝蕪村」より)

  すべての客観主義的芸術とは、智恵を止揚したところの主観表現に外ならない。
  およそ如何なる世界においても主観のない芸術というものは存在しない。
  芥川龍之介君と俳句を論じた時、芥川君は芭蕉をあげて蕪村を貶した。その蕪村を
  好まぬ理由は、蕪村が技巧的の作家であり、単なる印象派の作家であって、芭蕉に
  見るような人生観や、主観の強いポエジイがないからだということだった。友人
  室生犀星君も、かつて同じような意味のことを、蕪村に関して僕に語った。そして
  今日俳壇に住む多くの人は、好悪の意味を別にして、等しく皆同様の観察をし、
  上述の「定評」外に、蕪村を理解してないのである。
  蕪村を誤った罪は、思うに彼の最初の発見者である子規、およびその門下生なる根岸派
  一派の俳人にある。子規一派の俳人たちは、詩からすべての主観とヴィジョンを排斥し、
  自然を「あるがままの印象」で、単に平面的にスケッチすることを能事とする、
  いわゆる「写生主義」を唱えたのである。
  僕の断じて立言し得ることは、蕪村が単なる写生主義者や、単なる技巧的スケッチ画家
  でないということである。反対に蕪村こそは、一つの強い主観を有し、イデアの痛切な
  思慕を歌ったところの、真の叙情詩の抒情詩人、真の俳句の俳人だったのである。(中略)
  蕪村のポエジイの実体は何であろうか。一言にして言えば、それは時間の遠い彼岸に実在
  している。彼の魂の故郷に対する「郷愁」であり、昔々しきりに思う、子守唄の哀切な
  思慕であった。一般に詩や俳句の目的は、或る自然の風物情景(対象)を叙すること
  によって、作者の主観する人生観(侘び、詩情)を詠嘆することにある。単に対象を観照して、
  客観的に描写するというだけでは詩にならない。
  つまり言えば、その心に「詩」を所有している真の詩人が、対象を客観的に叙景する時
  にのみ、初めて俳句や歌ができるのである。それ故にまた、すべての純粋の詩は、本質的に
  皆「抒情詩」に属するのである。

 

萩原朔太郎の芭蕉私見

  芭蕉の俳句は、言葉がそれ自身「詠嘆の調べ」を持ち、「歌うための俳句」として作られている。
  (中略)故に芭蕉も弟子に教えて、常に「俳句は調べを旨とすべし」と言っていたという。
  「調べ」とは西洋の詩学で言う「韻律」のことであり、言葉の抑制節奏する音楽の事である。
  そして芭蕉の場合において、その音楽は詠嘆(寂びしおり)のリリシズムを意味していたのだ。
  蕪村は主観的詠嘆派の詩人ではなく、客観的即物主義の詩人であった。(中略)蕪村の技巧は、
  リリカルの音楽を出すことよりも、むしろ印象のイメージを的確にするための音象効果にあった。
  たとえば、
    鶯のあちこちとするや小家がち   蕪村
    春の海ひねもすのたりのたりかな  蕪村
  の如く、「あちこちとするや」の語韻から、鶯のチョコチョコとする動作を音象し、
  「のたりのたり」の音調から春の海の悠々とした印象を現しているのである。
  蕪村が「絵画的詩人」と言われるのはこのためであり、それは正しく芭蕉の
  「音楽的詩人」と対照される。
  芭蕉の句では、或る一つの主題をもった人生観や宇宙観が、直接に観念(思想)として
  歌われている。
  これ芭蕉が、蕪村に比して理知的な頭脳を持ち、哲人としての風貌を具えていた
  事の実証である。(中略)蕪村は感覚の人であり、思想というものを持たなかった。(中略)
  芭蕉のイデアした哲学は、多分に仏教や老荘の思想を受けてる。(中略)彼は人間性の普遍な
  悲しみを体験して、本質に宗教的なモラルを持ったところの、真のヒューマニストの詩人であった。

俳句は、ー即興的な抒情詩、家常生活に根ざした抒情的な即興詩。(参照:成瀬櫻桃子 著「久保田万太郎の俳句」 )
    (句集「道芝」昭和二年:38才)