切れ字

水原秋桜子は「切れ字」について下記のように言っています。(「俳句観賞辞典」)
   「や」「かな」「けり」「し」「ぞ」「か」「よ」「せ」「つ」「ぬ」「らん」などを、切れ字と言う。
   俳句は韻文であって、散文ではありませんから、一句はだらだらと叙述してはいけないので、
   常にひきしまっているのが大切です。
   この役目をになうのが切れ字というものであります。
   一句の中に切れ字を二つ使いますと、かえって音調が切れ切れになっていけません。

「切字(きれじ)なくては、発句のすがたにあらず、付句の体(てい)なり。」(服部土芳「白冊子」)
    切字がなくては、発句の本来の姿ではありません。それは、ひとつの付け句の
    かたちです。
    解説:句にひろがりと情緒を生みだす切字
      切字は上手に使えば句の品格を高め、句に格を与えます。
      芭蕉は「切れる気持ちがあれば四十八字すべてが切字である」とも言っています。
     (石寒太「芭蕉の言葉に学ぶ 俳句のつくり方」)

久保田万太郎は、五・七・五の十七音、季題、切れ字の三つの約束を尊重した。
   
俳句は終生「切れ字との格闘である」
      鳴く蟲のたゞしく置ける間(ま)なりけり
   (成瀬櫻桃子「久保田万太郎の俳句」)

霜柱俳句は切字響きけり     石田波郷

Wikipediaから「切れ」について引用すると、下記の通りです。

   古池や 蛙飛び込む水の音      芭蕉
   では、「古池や」の後で一呼吸、句の流れが切れている。
   読者はその一瞬の休符の合間に、作者を取り巻く環境や作者の思想・感情・情念・
   背景などを勝手に想像してしまう仕掛けになっている。このテクニックが「切れ」
   と呼ばれ、十七文字という限定された語数で、言葉に形と質感を与える効果を持つ。
   さらに、季語とあいまって句に余韻をかもしだす。
   現代の俳句でも「切れ」は重要なテクニックの一つであり、
   「切れ」のない句は俳句としては評価されない。