芭蕉の礼節と閑寂

芭蕉がある時、大名の句会に招かれたときに、芭蕉は大そう煙草が好きであったのですが、その時は煙草を吸わなかった。主人がたばこ嫌いであったためなのです。

後に同席していた其角が問うて言うには、「今日の会に、先生が主人に遠慮して煙草を召し上がらなかったのはどうも心得がたいことです。俳諧は洒落風流を旨とするものではありませんか。高位の方だとて懼(おそ)れるのは俗の気持ちではありませんか。今日の先生のご遠慮は、主人に諛(へつら)うという風に見えました。」芭蕉は答えて言うには、「一体、俳諧というものは小さな技だと云うようなものだけれども、用いようによっては、一つの道である。道であるからには、礼節というものがなければならない。世間の俗と違うことをやるのが風流だなどと考えるのは、間違ったことである。今日、私が煙草を吸わなかったのは、諂(へつら)ったのではない、礼儀である。」

「(要約)乞食坊主の身分でありながら、俳諧の宗匠とか言われて、高貴の人の前に出て談じたり笑ったりできるのも、すでに自分の身には過ぎたことだと云っていい。ましてその上に主人の嫌うものを自分が好きだからとて、遠慮もなく振舞うということは、あまりにも人を蔑(ないがしろ)にするというものではないか、自分の身分ということをしっかりと考えていなければいけないのでる。」 かように自分の身分相応にということが、芭蕉の人間的態度の根本になっております。行住坐臥、一挙手一投足、自分の身分相応にしていれば常にいかにも落ち着いていることができます。(中略)「芭蕉の閑寂(かんじゃく)」ということは、心がしずか、つまり落ち着きということであり、安定ということは自分の身に相応というところを知ることであります。

誰人か菰着ています花の春(たれびとか こもきています はなのはる)     芭蕉

(そこに菰を着ている人はどなたであるか、この結構な花の春はまことに結構なことでござる。)