俳句の本質
皆さんは俳句を始めてから、鉋屑(かんなくず)つまり先人の俳句を見ながら、ああ、こうして俳句は削るんだと自分で工夫して、心をくだいて俳句を作ったことがありますか?例えば、芭蕉さんの俳句は命の欠片ですから、その命の欠片を手本に俳句はこうして作るんだと思って作ったことがありますか。
大きな時間の流れの中の一点を捕らえる。そういう大きな仕事が俳句にはあるんです。
芭蕉は写生などとは言わない。「ものの見えたるひかり(、いまだ心にきえざる中にいひとむべし)」なんだ。そういう遙かな思いが一つもなくなって、「杉」の俳句も、今の俳壇もだめになった。何も考えないで機械的に俳句を作ったって、いい俳句ができるはずがないんです。
(石田)波郷さんも「猿蓑」を読みながら、「俳句は文学ではない」と言ったんだ。その心は芭蕉さんと同じなんですね。創作ということは俳句にはないんです。ものをつくる、作意を凝らすという概念はことは俳句にはない。俳句というものは、自分の生活そのままを詠う。そして自然や宇宙の方が遙かに大きいんです。その自然に従って謡う。それが俳句を作る心なんです。また、俳句を美しく飾ったり、文学的な飾りを付けてはいいけないんです。もとの自分自身に還って人間のパリのままの言葉で詠えば、それが俳句です。
今というのは肉体を持った自分の今なんだ。自分を忘れるということは、今という時を失うことなんです。時を失った風景はただの報告なんです。(中略)写生というのが一番の間違いだと思います。
(森 澄雄「俳句に学ぶ」)