「余情」が大事

「謂ひ応(いいおお)せて何かある」(向井去来著「去来抄」先師評)
    言い尽してしまってそこに何があるのか。
    言い尽さないことが無限の世界を言うことになる。
    余韻や余情が大切。

               (石寒太「芭蕉の言葉に学ぶ 俳句のつくり方」)

久保田万太郎の言葉(成瀬櫻桃子著「久保田万太郎の俳句」)

  影あってこその形:
  ”影”とは、畢竟”余情”であるとわたしは言いたいのである。
  そして”余情”なくして俳句は存在しえない。(中略)
  表面にあらわれた十七文字は、じつは、とりあへずの手がかりだけのことで、
  その句の秘密は、たとへばその十七文字のかげにかくれた倍数の三十四文字、
  あるいは三倍数の五十一文字のひそかな働きにまつべきなのである。(中略)
  その句の持つ十七文字の中だけで勝負を決める散文性の安易さを嫌悪したいのである。
                             (「春燈」第四号)

  俳句は美しい着物の縫いとりのようなものだ。表から見ると美しく縫い取られた着物も、
  その裏側では糸が上へ下へと錯綜している。
  出来上がった表から裏側の糸の広がりを想像できるような俳句でなければならない。

  どんな場合にでも、俳句の場合、感情を露出することは罪悪なのである。