季語と季節のずれ

北の地域では、「桜」(春の季語)が、立夏以降、つまり俳句の夏の季節に咲くということが起こります。
こういう場合、写真俳句を作る時に、春の季語とされている「桜」をどう扱うかという問題が生じます。
俳句を作る時の対処法としては、下記の4つの方法が考えられます。
1.俳句を詠む時期が、夏だとしても、「桜」は「春の季語」として扱う。
  (夏に詠んでも、季語の季節(春)とみなす。)
   例:藤波や 凪いでだらりの 帯となる     如風
   藤:春の季語
   夏の時期に詠んだが、藤を春の季語として扱い、春の句とする。
   俳句を読む人は、「春の句」のイメージで鑑賞する。

2.「桜」を「春の季語」として扱わず、単なる素材として扱う。つまり、桜以外の「夏の季語」を使う。
  (夏に詠んだ句として扱う。つまり詠む時期を重視する。)
   例:若葉風 欅並木を 藤棚へ     如風
   若葉:夏の季語 藤棚:春の季語
   藤棚は、本来、春の季語であるが、単なる素材として扱い、夏の句とする。
   俳句を読む人は、「夏の句」のイメージで鑑賞し、
   藤の花が咲いていようが、いまいが、とにかく藤棚へ抜ける若葉風と観賞する。

3.詠む季節とずれた季語については、「夏の桜」のように、四季の言葉で修飾する。
  (夏に詠んだ句として扱う。つまり詠む時期を重視する。)
   例:夏の藤 ここにも地球 温暖化     如風
   藤は、本来、春の季語であるが、「夏の」をつけることにより「夏の藤」は、夏の季語とする。
   俳句を読む人は、「夏の句」のイメージで鑑賞し、夏に藤が咲いたことを理解する。

4.詠む季節とずれた季語については、「季違い」の句として、二つの季語を容認する。
  (季節の変わり目のくとして扱う。つまり詠む時期と素材のアンギャップを楽しむ。)
   例:若葉風 どっと北向く 藤の花     如風
   藤:春の季語
   夏の時期に詠んだが、藤を春の季語として扱い、季違いの句とする。
   俳句を読む人は、「春と夏の間の句」のイメージで鑑賞する。

写真俳句に対して、ブログ(日記)的な要素を重視する場合(写真を早く見せたいなど)は、2・3・4のような対処法になるでしょうし、季語のもつ季感を重視する場合(名句を作りたい場合)は、1の対処法になると思います。
 

草木を詠む場合は、季語扱いでよいのではないか

自然にある草木の花・実・紅葉・落葉の時期というのは、地域によって違いがあります。また、草木の名が歳時記に載っていない場合もあります。「名句ができたら歳時記に載せる」というのは、極めて権威主義的な上、作句上も不便なので、草木の花・実・紅葉・落葉を詠む場合は、草木の名前だけで、季語とすべきだと思っています。私は、歳時記に載っていない草木の名前を詠む場合は「季感語」として、「季語」と同等に扱ってよいと思っていますし、そうしています。

桜の花の時期、紅葉の時期、落葉の時期は、それだけで「季語」とされるのですから、他の花木についても、歳時記に載っていようがいまいが、同様の扱いをすべきであるということです。たとえば、紫式部(小紫)という木の名は、現代俳句歳時記(角川春樹)に載っていません。「紫式部(小紫)」は、花より実のかわいさが特徴です。東京では、秋に実りますが、「紫式部の実」を詠めば、味わう人の季感で、観賞できると思います。

(以上 稲森 如風)

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高浜虚子「虚子俳句問答より引用

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歳時記による季題の違い?

「その歳時記の編者の、自分の信頼するに足ると思うものを選むより他ありません。」

季感と季題?

「季題がなくても季感があればいいのではないかという議論もありますが、それには反対です。」

「潮温む」は季題に使用可能か?

「この季題で立派な句を作って見せることです。(そうすれば天下の季題として認められます。)」

季節をまたいだ季題には、季節を挿入すべきか?

「燕、蛙は春、蠅、蛇、蟻は夏、雁は秋、と決まっております。春とか夏とか挿入する必要はありません。」

主題と季題?

「主題と季題はほとんど同格といって差し支えないでしょう。」

実際には秋の潮を、その印象から春の潮とすることは許されるか?

「秋の潮を春の潮にすることは自分の感じを偽らず写すことでありまして、その点からいえば一種の写生であります。」

梟が冬鳴いているのを聞いたことがない?

「梟は昔から冬の季題として取り扱われています。夏の梟を詠ずるには、別に夏の季題を配したならばよろしかろうと思います